昭和40年02月27日 朝の御理解
「もう泣くな、あと頑張りゃよいじゃないか」と、そう云うことを申します。人が悲嘆にくれておる時、それを力づけて言うことなんです。「そう悔やむな。あと頑張りゃいいぢゃないか。もう泣くな、と。これから一つ頑張れ」と。これは、どこまでも人間の言うことであって、神様はそう云うようなことは思うたり、仰ったりしない。「もう泣くな」と言われて、泣きやみ、そして本当に「一つ頑張るぞ」と言うただけではね、又、泣かなければならない元ができます。
信心は、その泣かなければならない、悔やまなければならない元を追求すること。そして、そこに分からせて頂くものは、「泣く段ではなかった。お礼を申し上げることであった」と、「神様の御都合であった」と。そう云う「神様のおかげであった」と云うようなものを分からせて頂いて、そこから頑張るのが信心なんだ、ね。根本的に違うでしょうが。ですから、例えば、泣かなければならなかったとか、悔やまなければならないといったような事柄が、あとに生き生きと生きてくるのです。
それも段々、おかげを頂いてまいりますとです、そこんところ「ハアーこれは神様の御都合に違いない」と思いこめます。これは神愛のあらわれだと、すぐそれをそうと頂けます。そこから、私は、信心が進められる。信心の精進、修行がなされていくと、そう云うおかげでなかならければいけないと思うですね。いかに手習いの稽古をさせて頂こうと思いましても、硯はあっても、墨はあっても、筆はあっても、肝心要のお恵みの水がなかったら、手習いは出来ません。そうでしょう。
どんなにいりこやら昆布やら、鰹節やらという素晴らしい味のものがありましても、お水がなからなければ、その味のよい、いわばおつゆならおつゆをを作ることは出来ません。そうでしょう。そこで私が一番始めに申しましたように、もう泣くなと、これから頑張れというのではなくてです、泣かなければならない元を追求する時にです、「ハアー神様の御都合であった。神愛のあらわれであった」と。
そこに、お恵みはお恵みと、まずは悟らせて頂いたところから、信心はなされていかなければいけんのです。お恵みと云うことは、私は、今日はお水ということで申しておる訳ですね。だから、まず、ここまでです、そこんところまで私は分からなければいけない。云わば、難儀というておる、その難儀の実体というものをよくよく見つめさせてもらわなければいけないということ。
只、その難儀の中から「どうぞ助けて下さい、どうぞ助けて下さい」と云うだけではです、ね、本当の助かりにはならない。「サアー、いっちょ頑張りなさい、しっかり、サアー信心しなさい」とそれは申しますけれどもそれは、言うても分からない、信心の分からない人に対してであって、それは丁度、人情八分といったようなものしか感じられません。「もう泣くな、サアー頑張れ」と。「これから」、それは、あらゆる場合に使う言葉だと思うですね。
意気消沈しておる人に事業に失敗しておる人に、意気消沈してる人目の前が真暗になっておるような人。例えば試験なら試験を受ける。ところが見事に試験がすべった「もう泣くな来年又頑張ればいいぢゃないか」というのと同じです。事業に失敗しておる人に「七転び八起きぢゃないか。頑張れ頑張れ」と、「失敗は成功の元だサアー頑張れ」と言う様なだけで頑張って、よし成功したからというてそれは本当のことではない。サアー来年その試験が受かったからというてです、それは大した事ではない。
やっぱり、事業に失敗すれば、失敗しただけが損であり、一年間浪人しただけがやはり損なのだということ。ところが、信心はです、一年浪人したおかげでということが分かってくる。失敗したおかげでというのが分かってくるの。それを分からして頂く、その分かるということが、お恵みがお恵みと分かったということであるから、ここにお水が用意された訳でしょう。
お水が出来たわけです。そのお水をいわば頂かせてもらい、入用させてもろうて墨にすらせてももらおう、筆をもって手習いの稽古もさせてもらおう。一生懸命一年間なら一年間、次の成功なら成功の時まで信心の稽古をさせて頂くというところに信心の値打ちがあるのですよ。私は本当に日々の中にです、様々な問題があります、その問題の中にですその問題の中に、本当に「しか、神様の御都合というのは恐れ入ってしまうね。有難いこっちゃなあ」という味を出していく事だと思う。
皆さ、それが、日々出来なければ駄目なんです。その味を味わなかったら、ね、そこにお恵みはお恵みと悟らしてもろうて、そこにいりこなり昆布なり、カツオ節なりを削ったりしてですたい、それをダシにしていくところに、美味しい味わいのあるおつゆが出来るというもの。私は信心というのはそう云う味わいを味わいながら、信心の稽古をさせて頂くと云う事だと思うんです。味わいなしには、信心がもう枯れ果てたようなですかね、いわゆる悲しい時の神頼み的な信心に堕しています。
商売をさせて頂くならば、売り場買い場と云うて、売り場買い場を大事にせよ、と。人が十銭のものならです、一銭か二銭かそこに勉強して、そして八銭で売れば、目先きはちょっと損のようだけれども、数はよう売れるから、それの方が得ぢゃ、というような意味の事を教祖は教えとられます。ですから、それを本気で踏ん切りをつけてから、「そうだ、今日から符丁をつけかえよう。
今までなら二割かけておった商品に対して、一割五分なら一割五分と商札をつけかえさせて頂こう」と云う所にです、例えば五分は損のようだけれども、必ずそれがよけい数が売れるようになるから、決して損にはならないのだと云うおかげ。そこもおかげです。けれどもね教えを本気で「ハアー教祖の神様がそう教えて下さったから」と云うて、例えば今まで二銭儲かっておったのを一銭五厘に儲かることにさせて頂いた、と。
二銭儲かっておったのを一銭儲かるように改めた、と云う、その改めようというその素直な心にです、神様はお蔭を下さるのが、これはもう無限大です。いいですか、ここんところのお蔭が素晴らしいのです。云うなら、これから二銭なら二銭と云う、一銭なら一銭と云う、目先きは、損のようだけれども、勉強させて頂いたと云うことは、これは、まあ自力でしょうね、一生懸命の自分の力をもってしなければ、目先きは損のようだけれども、やはり、自分の力味がいります。
そこを、ま、いうなら仏教的にいうなら、自力といった風に頂いていいと思うですね。ところが、その先に頂けるところの、他力と云うものは素晴らしいです。人間の知恵、力では及ばないところなのです。その素直な心にと云うですか、元気を出したその心にと云うですか、云わば限りのないおかげの展開があるわけなんです。私は、教えの尊さというのはそこだとこう思う。そのことに対してもお蔭を頂くんですよ。
昨日、二日市から川上さんと云う方が、毎日、参ってくるですね。昨日、お参りして見えてから、戸板に書いてある御教えを読んでですね、ここで真剣な面持ちで質問されるんです。「先生、あの我情をとると云うこと、自分の思いをとるということは、先生、どんなことでしょうか」と。私は申しました。「あんた、よかこつ聞いてくれた。もうそう云う風にですね、分かったごたる顔をしてから。
あそこを通り抜けてきよるけれど、分からんなら分からんところは、それを追究してもらうと云うことは、とても有難いことだ」と、「それが信心の稽古だ」と、「よかこつ聞いてくれたね」と云うて、私が話すんです。皆さん、どうでしょうか。お分かりでしょうか。我情我欲をとらして頂くというところに、神徳の世界を知ることができるのであり、真の道を見ることが出来る、と仰るですから。その真の道を見る為にです、お互いが、信心の追究をしなければいけんです。
信心の追究をさせて頂くと云うことがです、難儀なら難儀と云うものをです、その実体を追究させて頂いて、神様のおかげであり、神様の御都合であり、神愛のあらわれであったと分からせて頂く。おかげであると分からせて頂いた時に、それが、おかげと分かった時にそれがお水ならお水と云うことになるのですから、味わいよいおつゆも手習いの次第では上達することが出来るのであり、味付け加減一つで、これがおいしいものがだだがろうにもなってくる訳なんですよ。
問題は、その、けれどもお恵みの水がなからなければでけん。お恵みをお恵みと悟らにゃでけん。教えを頂くいわば態勢と云うか、云わば姿勢もできないのです。それで、私、川上さんに申しました。「例えばね、あなたが今日、お休みだとする。ところが、あなたは映画を見に行こうと思う。ところが御主人は芝居を見に行きたいと言うておられる。なら、あなた、芝居に行きなさい。
私は映画に行こうと云う所には、それはおかげはないと私は申しました。「自分は映画に行きたいのだけれど、主人が芝居に行きたいと言いよんなさるから、私も久しぶりで、あなたのお伴をさせて頂いてお芝居を見に行きましょうかという、そのことが自分の思いを捨てることであり我情を捨てることである」と私は申しました。そしてその先には、「本当に芝居を見せに行って頂いてよかった」と云うおかげもある。
けれどもね、本当に、あの主人任せになられて、自分の思いを捨てたと云うところにです、それから先はこう云う気持ちにならせて頂いて良かったと云う、只今申します、無限大のお蔭にふれていくことが出来るのであり、そこから、真の道と云うのを見究めることが出来るのですよ」と云うて。「もう先生、そんなに分かりやすく、いよいよ分かりました」と云って、本当に、真剣に求められますから、やはり有難かったのですね。涙を流して喜ばれました。真剣な、そうした求める姿勢と云うのがいるです。
そこに、信心の味わいと云うものをこれから味わして頂くことがです、出来るでしょうが。御理解は頂かん、御教えは分かっておるやら分からんやら。分からんなら分からん、そこを一ぺん追究して分からして頂いて、そのことを行じさせて頂くところからです、お蔭をお蔭と悟り、お恵みをお恵みとさとり、そのお恵みが、お蔭がです、土台になって信心の稽古はそれから出来るのですよ。
いかに墨があっても、硯があっても、筆があっても、水がなかったら手習い出来ません。どんなにカツオ節があっても、いりこがあっても昆布だしがあってもお恵みの水がなかったら、おいしいおつゆは出来ません。問題は、その元になるのは、そのお恵みの水なのだ。そこに様々な問題を追究させて頂きますとですたい、泣いているような場合でも、人から力づけてもろうて。
「サアー泣くな、もう泣くな」と「これから頑張ればいいぢゃないか」と云う頑張りでは駄目だと云うこと。泣かなければならないその元を追究して、お蔭であった、神様の御都合であったということを分からせてもろうて、それから頑張らせて頂くところに味わいも出てくればです、手習いも信心の稽古も出来てきて、例えば、さっき試験のことやら、事業の失敗のことを申しましたが、「失敗して良かった。
もうこれで失敗してなかったらです、本当のことが分からずじまいに、云わばすんでしまうところであった。一年浪人させてもらって良かった。こう云う御神意があったんであるから」と分かってくるような、味わいのあるおかげ。いよいよ信心の手習い、信心の稽古をです、と云うのは、そう云うようなあり方で稽古させて頂くこと。只、拝んで来る、只、信心のここには稽古に来るところだからと言うて、ここに一生、通うて来ただけでは、信心の稽古にはならんと云うこと。
そう云うようなことを身に付けさせて頂いてです、「今日はどうでもこうでも一つ、お父さん任せになろう」と。お父さんが芝居見に行くと云うなら、「本当に自分もそう云う気持ちになろう」と云うその意欲がです、お芝居見に行って良かった、お父さん任せになって良かったというおかげも味わいも出来てくるようなものじゃないでしょうかね。
おかげを頂かねばなりません。